丸正織物の3代目、琉球絣の若きリーダー 大城幸司さん(1981‐)
生まれも育ちも沖縄県南風原町。3人姉弟の末っ子で、上の二人は沖縄に居ながらも織物以外の職に就き、姉弟の中でただ一人、沖縄県外の大学を卒業し東京で就職していた大城さんが、8年前家業である丸正織物を継ぐことを決意しました。それは沖縄を離れて初めて自分の日常だった琉球絣の奥深さに気づけたからだそうです。
南風原町は戦後、島内で最初に織物業を復興させた地域で、今も染織業の職人は100名以上いますが、伝統工芸の担い手不足と、職人の高齢化により南風原町の織物産業も厳しい状況を迎えています。
今年97歳になる大城さんの祖母は2015年まで現役で活躍されており、帰郷後の大城さんは5年間ほど一緒に仕事できたのが嬉しかった、と言います。沖縄では「数え年で97歳になると子供に還る」意味から、子供の遊び道具であるカジマヤー(=風車)と言う名の祝いがあり、大城家は今、長きに渡り丸正織物を支えてくれた“おばぁ”のために、家族全員で風車の伝統柄を描いた琉球絣を作っているそうです。(2017年9月現在)
沖縄の絣柄は世界でも類のない多種多様な幾何学模様の図案が存在し、琉球王朝の御絵図帳には約600パターンもの図柄があります。
まず、それらの伝統的な図柄の基本パターンを組み合わせ、新たな図案を設計します。だいたい琉球絣では1センチ幅に縦糸が24~26本入るので、この設計図に沿って柄を作る染の指針となる「たね糸」に、染める部分と防染の部分の印をつけていきます。
整経(縦糸に必要な本数・長さ・張力を整える作業)された糸を束ね(例えば3センチなら1センチ24本×3=72本)模様になるポイント印をつけられた防染部分を1か所ずつ手で括り、染め作業の準備をします。染める前の手括りされた糸を仕上がった琉球絣の反物に置いて並べると、括られた部分が染まらずに生糸本来の色で柄をつくっていくのがわかります。
括りの糸は水を含むとより締まる木綿です。染められたばかりの絹糸の束をみると、染まらなかった白のたね糸と、印ごと丁寧に括られた部分が見えます。括り部分が地色を残し、絣模様となっていくのですが、絣の魅力でもあるエッジの擦れた図柄具合は、これらの計算を超えた手しごとによるものです。機械的なピシッとしたラインでは表現できない風合いがここから生まれます。
この後、縦糸の巻取り、巻き取った縦糸に杼(ひ)の緯糸が通りやすくするための道を作る綜絖(そうこう)掛けが整って、ようやく織作業へと…。なんと織りにたどり着くまでの糸の準備だけで30近い工程をすべて手作業で行っているのです。
こちらはかつて大城さんのお父さんが括り、お祖母さんが染織した逸品。経緯かすりやミミチキトーニー(取手付きエサ箱)など古典柄が、琉球藍で染められた糸で織り上げられた価値のある貴重な年代物です。
ようやく出来上がった着尺の反物は、伝統的な図案が素朴な温かみをもち、着る人を選びません。長い年月育まれた図柄には人や自然を愛する意味合いをもち、作り手の想いを考えるとより一層愛着を感じます。また「何故?」と不思議に思うモチーフが抽象化されている図柄に出会うこともあり、その不可解さはいつまでも考えさせる謎解きのような魅力があります。
次々と新しさを求め、簡単に短時間で便利なものこそ進化だと思われている時代に、琉球絣は、育まれてきた数々の図柄を変えることも、手作業の工程を省略化することもなく、その時代の流行に惑わさずに受け継がれていった結果、手しごとでしか生み出せないその真価が今、再評価されています。ひとりでも多くの方に、この究極にぶれない“スロー・ファブリック”を見て手に取っていただきたい、と大城さんは願っています。