あうんの呼吸で。

戦後、いち早く復活した町は「南風原町」だったと伺いました。南風原町の「琉球かすり」は糸を作る人、染める人、織る人と分業制だったため生産性が高く、職人たちが集まってきたからだそうです。一方びんがた染職人さんは、デザイン~型作り~染めの工程をだいたい個人で全て行うことが多く、人によって得意な工程次第で仕事の進み具合も変わってくるとか。

今回お会いした「工房さくはら」は佐久原さんと照屋さんの二人三脚びんがた工房。ふたりの出会いは50年以上の前になるようで、紅型を習った先生が一緒だったので、その工房内で一緒に紅型を学び、年も同じだったからすぐ仲良くなれた、と話してくれました。

(手前が照屋さん、奥が佐久原さん)

佐久原さんはデザインと染め、型つくり、時々染め。照屋さんは染めがメインで他に営業、お金の計算だと笑ってましたが、お互いができないものがあっても、その足りない部分を持っていて、しかも好きなものが一緒な相手に出会えたから(びんがたを)やってこれて幸せだと。…羨ましいお話です。

お二人から生まれる作品は実に鮮やかです。色だけではなく、それぞれのデザインのシャープさが、より一層鮮やかさを増しているのだと気づきました。余計なものがなく迷いがなく、きっとあうんの呼吸でお互いの気持ちが伝わって、スムーズに進んでいくお仕事ぶりが作品から想像できました。

ぜひ、みやらび展でご覧になってください。

注目の女性びんがた作家

出身は岐阜県。紅型に魅せられ沖縄に移住を決めた注目の作家 ー三浦敦子さん「琉球びんがた工房ちゅらり」

両親が古美術商だったため、伝統や芸術に触れる機会が多く、その影響から絵を描いたり、裁縫したりとモノづくりが好きな子供だった三浦さん。出身地は岐阜、しかも前職は公務員という経歴。実は、ご両親の強い希望で将来が安定できそうな職を選んだそうですが、転勤先の福岡で紅型に出会い、結局は昔から好きだったモノづくりの道に戻ったそうです。

 

沖縄に移住し、紅型後継者育成事業に参加。その後、若き担い手を積極的に輩出している屋冨祖幸子さんの工房で、紅型制作工程を一からみっちり学ばれました。屋冨祖さんの教えは「伝統を繋ぐのに大切なのは基本」。糊つくり、配色、隈取り、蒸し、水元(洗い)、縫製等…数々の工程の修行と経験を積み、2017年ついに「琉球びんがた工房 ちゅらり」を構え、10年目にして念願の独立を果たされました。今年はりゅうぎん紅型デザインコンテストで奨励賞を受賞。いま注目の若手紅型作家さんです。

 

 

 

 

 

三浦さんの工房は白を基調としてとても明るく、そしていつでもすっと型紙や道具などが手に取れるよう整理されていました。  ここから生まれてくるどの作品にもそのお仕事ぶりが反映され、実にキリリとしています。

 

 

 

 

 

印象強い紅型の古典スタイルを取り入れながらも、手にした時にフッと笑顔になるような遊び心のあるモチーフが三浦さんのテーマ。そんな三浦さんの作品は、着ける人を応援してくれる心強いパワーがあって気分が上がります。“勝負服”のような、何かいいご縁を引き寄せてくれる気がします。

 

琉球藍が生まれる頃

先週、10月に行う沖縄きもの販売のため、工房巡りの今帰仁エリアへ向かう途中、琉球藍の生産工場がたまたま「発酵」を始められたとの情報があり、寄り道して見学させてもらいました。

↑水入れしてから2日目。かなりぶくぶくと泡立って藍が成長してしています。水槽の中では琉球藍の葉からインディゴ成分が徐々に染み出ているのです。

↑藍の葉に水を入れたばかりの水槽(右側)との比較。

琉球藍の収穫は6月と11月の年2回。この2か月が1年で一番忙しく、前回の沖縄訪問(昨年9月)この工場を覗かせていただいた時は、確かにがらーんとしてました。琉球藍は刈ったあとの茎に直射日光が当たると根がだめになってしまうので、日光が弱まって曇りがち~小雨の天気が多いこの時期(6月と11月)が収穫に適しているようです。

インディゴが染み出た水は、水槽の中でうまく藍の葉分けられ、その水に石灰を混ぜて上澄みを除けば、どろどろになった「藍の元」=泥藍、が出来上がりという訳です。…とはいえ、ここまでもかなりの重労働。琉球藍製造所はこの地域でもこの1か所しかなく貴重な見学をさせていただきました。

琉球藍で染められた着尺地・帯地は春・夏の「みやらび展」でお買い求めできます。

日本には藍にまつわる様々な色の名称があります。生の藍を使って染めると、その水は葉の色と同じ緑色ですが、布地に染まると薄い水色になり、これがいちばん淡い藍色、最も薄い藍染で「甕覗(かめのぞき)」と言います。

柚木沙弥郎先生のお話を聞いてきた。

柚木沙弥郎の染色 もようと色彩 @日本民藝館

先月19日、柚木沙弥郎氏の講演に出かけた。

ご自身の原点である日本民藝館について、そして創設者・柳宗悦について語りたいと、柚木先生は1時間半話し続けた。予め話す内容のメモは用意していたようだが、ほとんど何かに頼るわけでもなく、登壇席に向かうまでは杖を手にし時間はかかったが、一度席に座ると、幼少期のばあやのこと、柳宗悦氏へのオマージュ、師であった芹沢銈介氏との思い出など、楽しく私たちに聞かせてくれた。1922年生まれの95歳。日本民藝のレジェンド達との思い出話だけでなく、最近観た映画までの幅広い話題と、年齢を感じさせない伝えたいことばのセンスが若々しくて正直びっくり。

また日本民藝館で展示期間中に現存する作家が講演を行うのは、棟方志功氏以来約45年ぶりという歴史的講演であったのも驚きだ。

柚木先生の仕事スタート地となった静岡県由比町「由比正雪 紺屋」の思い出話はとても興味深かった。25歳の時、染色の基礎を学ぶために住み込みで働いていたその染色屋の一日は、その家族、見習いみな寝るとき以外のほとんどの時間は仕事だった、という。男衆らは朝から晩まで当然の事、女性も子供をおんぶしながら、染色の仕事をし、食事の用意をし、子供をあやして立ったまま食事をする。来る日も来る日も、永遠に時が止まっているような、時空超えた目まぐるしい日常がそこにあった。柚木先生が今まで過ごしていたものとは全く違う次元の生活だったが、この日常こそ、日々“生きている”充実さの実感がある生活であり、その活き活きとした生命力に溢れている時間が「民藝」の美しさに繋がっているのではないか、という話を伺い、私は初めて「民藝」という概念が少しだけわかったような気がした。

6月24日まで日本民藝館で行われている「柚木沙弥郎の染色 もようと色彩」は約70年に及ぶ創作活動で生まれた柚木先生作品が一堂に集約されている。驚かされるのが2000年に入ってからの作品、特に昨年制作された作品たちの力強さと瑞々しさだ。これまでの色んな手法やモチーフで楽しませてくれた作品より、もっとはっきりとご自身の“直観”をそのまま表現されているように感じる。

「自分が今、何をしたいのか。」

柚木先生は日々自分に聞いているという。自分がワクワクしていると自分の中から作品が生まれてくる。だから(その日かぶっていた帽子を指さしながら)こうしてお洒落してみたり、映画を見たりして、自分を“あやして”いるそうだ。

日常をもっとよく見てみると、その中には好奇心をそそるアイディアやヒントがたくさんあるはず。深刻にならずに面白がって生きていく、それが大切だと。

 

先生の講演、最後のことばは「お元気で。」

ほんと、柚木先生もお元気で。

直接お目にかかり、お話しが聞けたことは本当に幸せでした。

#柚木沙弥郎 #日本民藝館 #染色 #自分をワクワクさせよう