みやらび展のお客様

桜が舞う季節になりました。最近、半年前のみやらび展第1回目(2018年10月上旬)にお越しいただいたお客様から、お召しになっていただいたお着物・帯の写真を送って頂きました。ありがとうございます。実際の着物や帯の形となってお客様がまとわれている姿とお言葉は嬉しいですね。また想像以上にシャープに映える沖縄の織物たちを再発見し、驚きました。なかなか着ていただけてるお姿を見る機会のない作り手さん達にもそのお声・お姿をお届けしたいと思っています。

こうして拝見していますと、改めて思うのは琉球絣は引きの美しさがあります。例えると野花のようなつつましい感じとでもいいましょうか。桜のような艶やかさや、ユリのような豪華さより静かだけれども、目を止めてしまうような凛としたたたずまいを想像させます。

こちらは沖縄ものの組み合わせですが、お持ちのお着物にも併せられると思います。お持ちのお着物のお写真などあれば、ぜひお持ちください。

沖縄はどこよりも「染織の都」という話。

昨年のモデルさん達、みやらびですねー。

日本には国の規定に沿って指定された伝統的工芸品は現在全国には232品あり、一番保有の多い県は京都府と東京都、次に多いのが新潟県と沖縄県です。その中で最も多く工芸品として認められているのが織物部門の38品目。その3分の1近く、12品目が沖縄県に集約されているのは意外に知られていません。沖縄はいわば染織の都なんです。

東南アジアで発展した染織の技が14~15世紀に沖縄に伝わり、それぞれの地で独自に開花しました。中でも琉球かすりは手作業を分業体制の生産で効率をあげ、沖縄本島南部に位置する南風原町は戦後、織物の各専門分野の職人が集まったため、いち早く復興し現在は、琉球王朝時代から受け継ぐ平織模様の琉球かすりと、糸を浮かせた浮き柄模様が美しい南風原花織を生み出す織物の町になっています。

みやらび展では南風原町の各工房から、古典柄、機会の少ない南風原花織などを中心に展示・販売しています。この機会に、ぜひ、お手に取ってご覧になってください。

あうんの呼吸で。

戦後、いち早く復活した町は「南風原町」だったと伺いました。南風原町の「琉球かすり」は糸を作る人、染める人、織る人と分業制だったため生産性が高く、職人たちが集まってきたからだそうです。一方びんがた染職人さんは、デザイン~型作り~染めの工程をだいたい個人で全て行うことが多く、人によって得意な工程次第で仕事の進み具合も変わってくるとか。

今回お会いした「工房さくはら」は佐久原さんと照屋さんの二人三脚びんがた工房。ふたりの出会いは50年以上の前になるようで、紅型を習った先生が一緒だったので、その工房内で一緒に紅型を学び、年も同じだったからすぐ仲良くなれた、と話してくれました。

(手前が照屋さん、奥が佐久原さん)

佐久原さんはデザインと染め、型つくり、時々染め。照屋さんは染めがメインで他に営業、お金の計算だと笑ってましたが、お互いができないものがあっても、その足りない部分を持っていて、しかも好きなものが一緒な相手に出会えたから(びんがたを)やってこれて幸せだと。…羨ましいお話です。

お二人から生まれる作品は実に鮮やかです。色だけではなく、それぞれのデザインのシャープさが、より一層鮮やかさを増しているのだと気づきました。余計なものがなく迷いがなく、きっとあうんの呼吸でお互いの気持ちが伝わって、スムーズに進んでいくお仕事ぶりが作品から想像できました。

ぜひ、みやらび展でご覧になってください。

絣・織の柄のはなし

琉球絣には600種ほどの柄があります。動植物にちなんだ代表的なものではトゥイグワー(鳥)、ビック―(亀甲)、自然界からはミヂィ・フム(水雲)や、器モノからもミミチキトーニー(取っ手付きエサ箱)など、日常の暮らしで身近にあるものを題材に取り入れられてます。

 

それらの柄は琉球王朝時代、”献上布”として職人が正しく制作するためのお手本帳として、王朝がまとめた図案集「御絵図帳(みえずちょう)」が現代でも柄見本として受け継がれているため、今の琉球絣にも当時と同じ柄が織り込まれいるのです。

↑ ミヂィ・フム(水雲型)、カキジャー(S字フック)

↑ フタイ・ビーマ(フタイは二重、ビーマは駒)

読谷山や八重山諸島が産地として有名なミンサー織。木綿糸を平織りで仕上げていく織物で、五つのマス目と四つのマス目を織り込んだ特徴的な模様は、二つを重ねるとぴったりひとつになる「いつ(五つ)の世(四つ)までも末長く……」という思いが込められていて、琉球王朝時代、婚約の証として女性から愛する男性に贈る風習があったそうです。

↓ 五つのマス目は「イン・ヌ・フィサー(犬の足)」とも呼ばれます。

次々と新しさを求め、簡単に短時間で便利なものこそ進化だと思われている現代。日常から生まれたこれらの素朴な柄たちは、その作業の工程を省略化することもなく、時代の流行に惑わされることもなく、今や手しごとでしか生まれないその実直さが魅力となっています。

注目の女性びんがた作家

出身は岐阜県。紅型に魅せられ沖縄に移住を決めた注目の作家 ー三浦敦子さん「琉球びんがた工房ちゅらり」

両親が古美術商だったため、伝統や芸術に触れる機会が多く、その影響から絵を描いたり、裁縫したりとモノづくりが好きな子供だった三浦さん。出身地は岐阜、しかも前職は公務員という経歴。実は、ご両親の強い希望で将来が安定できそうな職を選んだそうですが、転勤先の福岡で紅型に出会い、結局は昔から好きだったモノづくりの道に戻ったそうです。

 

沖縄に移住し、紅型後継者育成事業に参加。その後、若き担い手を積極的に輩出している屋冨祖幸子さんの工房で、紅型制作工程を一からみっちり学ばれました。屋冨祖さんの教えは「伝統を繋ぐのに大切なのは基本」。糊つくり、配色、隈取り、蒸し、水元(洗い)、縫製等…数々の工程の修行と経験を積み、2017年ついに「琉球びんがた工房 ちゅらり」を構え、10年目にして念願の独立を果たされました。今年はりゅうぎん紅型デザインコンテストで奨励賞を受賞。いま注目の若手紅型作家さんです。

 

 

 

 

 

三浦さんの工房は白を基調としてとても明るく、そしていつでもすっと型紙や道具などが手に取れるよう整理されていました。  ここから生まれてくるどの作品にもそのお仕事ぶりが反映され、実にキリリとしています。

 

 

 

 

 

印象強い紅型の古典スタイルを取り入れながらも、手にした時にフッと笑顔になるような遊び心のあるモチーフが三浦さんのテーマ。そんな三浦さんの作品は、着ける人を応援してくれる心強いパワーがあって気分が上がります。“勝負服”のような、何かいいご縁を引き寄せてくれる気がします。

 

琉球絣をつなぐ人

丸正織物の3代目、琉球絣の若きリーダー 大城幸司さん(1981‐)

生まれも育ちも沖縄県南風原町。3人姉弟の末っ子で、上の二人は沖縄に居ながらも織物以外の職に就き、姉弟の中でただ一人、沖縄県外の大学を卒業し東京で就職していた大城さんが、8年前家業である丸正織物を継ぐこを決意しました。それは沖縄を離れて初めて自分の日常だった琉球絣の奥深さに気づけたからだそうです。

 

南風原町は戦後、島内で最初に織物業を復興させた地域で、今も染織業の職人は100名以上いますが、伝統工芸の担い手不足と、職人の高齢化により南風原町の織物産業も厳しい状況を迎えています。

今年97歳になる大城さんの祖母は2015年まで現役で活躍されており、帰郷後の大城さんは5年間ほど一緒に仕事できたのが嬉しかった、と言います。沖縄では「数え年で97歳になると子供に還る」意味から、子供の遊び道具であるカジマヤー(=風車)と言う名の祝いがあり、大城家は今、長きに渡り丸正織物を支えてくれた“おばぁ”のために、家族全員で風車の伝統柄を描いた琉球絣を作っているそうです。(2017年9月現在)

 

沖縄の絣柄は世界でも類のない多種多様な幾何学模様の図案が存在し、琉球王朝の御絵図帳には約600パターンもの図柄があります。

まず、それらの伝統的な図柄の基本パターンを組み合わせ、新たな図案を設計します。だいたい琉球絣では1センチ幅に縦糸が24~26本入るので、この設計図に沿って柄を作る染の指針となる「たね糸」に、染める部分と防染の部分の印をつけていきます。

整経(縦糸に必要な本数・長さ・張力を整える作業)された糸を束ね(例えば3センチなら1センチ24本×3=72本)模様になるポイント印をつけられた防染部分を1か所ずつ手で括り、染め作業の準備をします。染める前の手括りされた糸を仕上がった琉球絣の反物に置いて並べると、括られた部分が染まらずに生糸本来の色で柄をつくっていくのがわかります。

 

括りの糸は水を含むとより締まる木綿です。染められたばかりの絹糸の束をみると、染まらなかった白のたね糸と、印ごと丁寧に括れた部分が見えます。括り部分が地色を残し、絣模様となっていくのですが、絣の魅力でもあるエッジの擦れた図柄具合は、これらの計算を超えた手しごとによるものです。機械的なピシッとしたラインでは表現できない風合いがここから生まれます。

 

この後、縦糸の巻取り、巻き取った縦糸に杼(ひ)の緯糸が通りやくするための道を作る綜絖(そうこう)掛けが整って、ようやく織作業へと…。なんと織りにたどり着くまでの糸の準備だけで30近い工程をすべて手作業で行っているのです。

 

こちらはかつて大城さんのお父さんが括り、お祖母さんが染織した逸品。経緯かすりやミミチキトーニー(取手付きエサ箱)など古典柄が、琉球藍で染められた糸で織り上げられた価値のある貴重な年代物です。

 

ようやく出来上がった着尺の反物は、伝統的な図案が素朴な温かみをもち、着る人を選びません。長い年月育まれた図柄には人や自然を愛する意味合いをもち、作り手の想いを考えるとより一層愛着を感じます。また「何故?」と不思議に思うモチーフが抽象化されている図柄に出会うこともあり、その不可解さはいつまでも考えさせる謎解きのような魅力があります。

 

次々と新しさを求め、簡単に短時間で便利なものこそ進化だと思われている時代に、琉球絣は、育まれてきた数々の図柄を変えることも、手作業の工程を省略化することもなく、その時代の流行に惑わさずに受け継がれていった結果、手しごとでしか生み出せないその真価が今、再評価されています。ひとりでも多くの方に、この究極にぶれない“スロー・ファブリック”を見て手に取っていただきたい、と大城さんは願っています。

みやらび展 の始まり

みやらび展について

DMもうすぐ出来上がります!

↑ 最終形ではないが、もう載せてしまおう。(そんなに変わらないし。)

itsu&co. は初めて着物の販売会を主催します。色んな事が手探り状態です。沖縄の着物を売るなんて、もしかしたら無謀だったかもしれないです。私は着物好きですが、沖縄出身でもなければ、親戚がいる訳でもない。強いて言えば静岡生まれの私が人生最初の飛行機は沖縄旅行だった、大学の卒業旅行で。…きっかけは些細な事だったかもしれません。怖いもの知らずだったのかもしれません。ここに至る経緯はたくさんありますが、まずは「みやらび展」のご紹介を。

タイトル、自分で決めました。みやらびって漢字だと「美童」って書くようです。美しい心をもった乙女の意味。沖縄のお土産物に「琉球みやらびこけし」というのがありまして、実は今回の案内状撮影時も展示していたのですが、反映されていないのです…(笑)。

バージョン違いのこちらには写ってます。

わかりづらい。。。

 

ここです!

このコケシが可愛かったんです。

沖縄では多くの方が踊りを習われていて、でもその多くは男性中心の踊りだそうです。その中でも「浜千鳥」という紺地の絣を着たさわやかな娘たちの踊りがあって、それを見た沖縄のおじちゃん達は「みやらびやなぁ。」とホンワカする、という話を案内状の撮影時に聞きました。その時から“みやらび”という響きがよくて、世の中の多くの男性達に「みやらびだなぁ」とうっとりするような着物姿の女性を増やしたい、と思いました。

沖縄生まれの着物は、選んだ人の純朴な美しい心が映えます。きらびやかさや、華美な装飾はありませんが、作られてきた方々のしなやかな強さが顕れます。着ている人も凛としていないと負けるかも?!

ぜひ、この機会に試してみてください!

みやらび展 ~沖縄・南風原町で生まれた織りの美~ 浅草橋 ルーサイトギャラリー 10月6-8日 11-18時。

 

琉球藍が生まれる頃

先週、10月に行う沖縄きもの販売のため、工房巡りの今帰仁エリアへ向かう途中、琉球藍の生産工場がたまたま「発酵」を始められたとの情報があり、寄り道して見学させてもらいました。

↑水入れしてから2日目。かなりぶくぶくと泡立って藍が成長してしています。水槽の中では琉球藍の葉からインディゴ成分が徐々に染み出ているのです。

↑藍の葉に水を入れたばかりの水槽(右側)との比較。

琉球藍の収穫は6月と11月の年2回。この2か月が1年で一番忙しく、前回の沖縄訪問(昨年9月)この工場を覗かせていただいた時は、確かにがらーんとしてました。琉球藍は刈ったあとの茎に直射日光が当たると根がだめになってしまうので、日光が弱まって曇りがち~小雨の天気が多いこの時期(6月と11月)が収穫に適しているようです。

インディゴが染み出た水は、水槽の中でうまく藍の葉分けられ、その水に石灰を混ぜて上澄みを除けば、どろどろになった「藍の元」=泥藍、が出来上がりという訳です。…とはいえ、ここまでもかなりの重労働。琉球藍製造所はこの地域でもこの1か所しかなく貴重な見学をさせていただきました。

琉球藍で染められた着尺地・帯地は春・夏の「みやらび展」でお買い求めできます。

日本には藍にまつわる様々な色の名称があります。生の藍を使って染めると、その水は葉の色と同じ緑色ですが、布地に染まると薄い水色になり、これがいちばん淡い藍色、最も薄い藍染で「甕覗(かめのぞき)」と言います。

雨の花色

今日は一日中雨でしたが、雨の日はよく眠れます。

久しぶりにカメラを持って傘をさしながら近所を散歩していたら美しい真っ白なアジサイにはっとしました。雨の日には薄紫やブルーな花が咲いているような先入観があったせいか。。。

 

 

 

 

しかもその向こうにはヤマボウシも咲いていて、これもまた白色。美しい白色が重なっています。

白色に慣れた目にはバラが卑猥に見え、戻ってその色の名を探すと「紅緋(べにひ)」が一番ピンとくる。

紅緋:鮮やかな緋色に使われている色名で黄色染料によって冴えた黄味のある赤をいう。(『日本の配色』より)浮世絵に描かれている女性の襦袢を指す色でした。

柚木沙弥郎先生のお話を聞いてきた。

柚木沙弥郎の染色 もようと色彩 @日本民藝館

先月19日、柚木沙弥郎氏の講演に出かけた。

ご自身の原点である日本民藝館について、そして創設者・柳宗悦について語りたいと、柚木先生は1時間半話し続けた。予め話す内容のメモは用意していたようだが、ほとんど何かに頼るわけでもなく、登壇席に向かうまでは杖を手にし時間はかかったが、一度席に座ると、幼少期のばあやのこと、柳宗悦氏へのオマージュ、師であった芹沢銈介氏との思い出など、楽しく私たちに聞かせてくれた。1922年生まれの95歳。日本民藝のレジェンド達との思い出話だけでなく、最近観た映画までの幅広い話題と、年齢を感じさせない伝えたいことばのセンスが若々しくて正直びっくり。

また日本民藝館で展示期間中に現存する作家が講演を行うのは、棟方志功氏以来約45年ぶりという歴史的講演であったのも驚きだ。

柚木先生の仕事スタート地となった静岡県由比町「由比正雪 紺屋」の思い出話はとても興味深かった。25歳の時、染色の基礎を学ぶために住み込みで働いていたその染色屋の一日は、その家族、見習いみな寝るとき以外のほとんどの時間は仕事だった、という。男衆らは朝から晩まで当然の事、女性も子供をおんぶしながら、染色の仕事をし、食事の用意をし、子供をあやして立ったまま食事をする。来る日も来る日も、永遠に時が止まっているような、時空超えた目まぐるしい日常がそこにあった。柚木先生が今まで過ごしていたものとは全く違う次元の生活だったが、この日常こそ、日々“生きている”充実さの実感がある生活であり、その活き活きとした生命力に溢れている時間が「民藝」の美しさに繋がっているのではないか、という話を伺い、私は初めて「民藝」という概念が少しだけわかったような気がした。

6月24日まで日本民藝館で行われている「柚木沙弥郎の染色 もようと色彩」は約70年に及ぶ創作活動で生まれた柚木先生作品が一堂に集約されている。驚かされるのが2000年に入ってからの作品、特に昨年制作された作品たちの力強さと瑞々しさだ。これまでの色んな手法やモチーフで楽しませてくれた作品より、もっとはっきりとご自身の“直観”をそのまま表現されているように感じる。

「自分が今、何をしたいのか。」

柚木先生は日々自分に聞いているという。自分がワクワクしていると自分の中から作品が生まれてくる。だから(その日かぶっていた帽子を指さしながら)こうしてお洒落してみたり、映画を見たりして、自分を“あやして”いるそうだ。

日常をもっとよく見てみると、その中には好奇心をそそるアイディアやヒントがたくさんあるはず。深刻にならずに面白がって生きていく、それが大切だと。

 

先生の講演、最後のことばは「お元気で。」

ほんと、柚木先生もお元気で。

直接お目にかかり、お話しが聞けたことは本当に幸せでした。

#柚木沙弥郎 #日本民藝館 #染色 #自分をワクワクさせよう